スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

色つきの夢

色のついた夢を見るのは、体が疲れているからとか心が乱れている、なんて昔はよく言われた。最近では色つきの夢を見る人が多いらしい。私もいつもじゃないけれど、色のついた夢をよく見る。
おかしなことに夢の中で印象に残る色は、たいてい深い濃い青色であることが多い。たとえばよく海の夢を見るけど、水は底までずうっと澄んでいて、中にたくさんの魚が泳いでいたり海底を這っている貝殻までがよく見える。その水はちょうどブルーブラックインクみたいな深い濃い藍色をしている。その怖いほど透明な冷たそうな藍色が、目覚めた後まで強い印象に残っていたりする。
あるいは公園か植物園のような場所にいて、初めて知る青い花を見つける。それは秋の空みたいにまじりっけのない、素晴らしく純粋な胸が痛くなるほど青い色で、「そっと持って帰れないかな、種でも出来てないかしら」などと興奮している、夢の中で。

もうずいぶん昔、とても綺麗な花畑の夢を見たことがあった。背の高い青紫の花が横に広がり、手前にそれよりやや背の低い鮮やかなオレンジ色の花。ふた色の花がきっちり二列になって見渡す限り一面に咲いている。夢の中で「あれは何の花だろう?」と一生懸命考えていた。目が覚めても美しい色の取り合わせが忘れられず、涼しい青紫の花はデルフィニウム…いやもう少し繊細だったな、などと考え続け、ついにそれはよく育ったネペタ(キャットミント)で、オレンジの花はポピー(おそらくカリフォルニア)と結論づけた。いつか本当にこの2種の花でボーダー花壇を作るのが夢。
スポンサーサイト

記憶怪談

筒井康隆「鍵」は怖い話だ。
背広のポケットから出てきた、その存在さえも忘れていた鍵。記憶をたぐって鍵が合うべき元の場所に行ってみると、そこでまた忘れていた鍵を見つける。思い出がよみがえり、その鍵の元の場所へ…。こうして次々と見つかる鍵の記憶に導かれていく主人公は、懐かしさをたどっていたつもりが、いつしか無意識の底へ葬ったはずの過去から逆にたぐりよせられていく。そして恐ろしい結末へ。

古今東西の怖い話をよく漁り読みする。中でも好きなのが「鍵」みたいな”記憶怪談”。これは私が勝手につけた造語だ。自分自身の中に潜んで無意識にまで押し込められた恐怖の記憶。あるいは「あれはなんだったんだろう?」と思っていた不可解な記憶が、時が経って、パズルのピースがぴたりとはまるように浮かび上がる戦慄の事実。外国ではちょっと思いつかないけど国内ではそういう作品に時々ぶつかるし、高橋克彦のような記憶怪談を得意とする作家もいる。

または子供の頃などに何気なく体験したことを、ずっと後に思い出して「あれはなんだったんだろう?」と不思議になる、というパターン。たとえばこのサイトの話とか。あとで謎が解けるということもないので、かえって不可思議さが増していく感じ。そういうのを考えていると、迷宮の中にいるような、開けても開けても中に箱のある箱のような、ちょっと眩暈に似た果てしのない感覚をおぼえる。

記憶に関する奇妙な感覚は自分自身にも向かう。松村友視(視は正しくは左側が示)の短編で印象的な話があった。アパートで独り暮らしの初老の女性が主人公で、毎日使っている針箱がある日見えなくなる。外へは持ち出さないし誰も訪ねてこないし、留守の間に人が来た様子もない。要するに無くなるわけはないのに、どこを探してもない。徐々に沸いてくる不安と焦燥と理由のない恐怖で、捜索は執拗になってゆく。結局それは冷蔵庫の中で見つかる。そんなことをした記憶はまったくないのに、それをしたのは彼女以外にありえない。針箱を膝に乗せたまま主人公は涙を流しヒステリックな哄笑をあげる。
ある時間の記憶がまったく無い、というのも考えてみるとかなり怖いことだ。たしかに自分自身なのに、記憶に無い自分は、あたかも他人みたいだ。

…怖い話でも何でもなく、おそらくは単なる私の勘違いだろうけど、自分の中でずっと謎になってることをこの際だから書いておこう。
かなり前、雑貨を手作りして店に卸売りしていたことがあった。いくつかのお店に置いてもらっていた中で、関西の女性オーナーのお店では作品がよく売れた。私は気をよくして「リクエストがあれば作ります」と言ったら、アクセサリーを頼まれた。しばらく時間をもらえるよう頼んで(当時は電話とFAXでやりとりしていた)、張り切って制作した。1ヶ月ほどかかって数点の試作品が出来たので、ベランダで撮影した。自分の記録用に作品の写真をファイルしておくのだ。ちょうど真夏でベランダの照り返しが眩しかったのを覚えている。それから深夜までかかって試作品を梱包して(予定よりも時間がかかったので慌てていた)手紙も添えて、コンビニから発送した。でもその後も取引は続いたもののアクセサリーについて先方からコメントがなかったので、せっかく作ったのに気に入らなかったのかな(-_-メ)と思っていた。それから数ヶ月経って私は引越しすることになり、委託してた作品を引き取らせてもらうよう連絡を入れたところ、そのやりとりの中でアクセサリーの試作品が届いてないことを知った。あちらは「送ってこないのでウヤムヤになったと思っていた」と。えっ!?確かに送りました!と言ったら先方も慌てて、宅配の事故ではないかと心配しだした。手元にある送り状を確認すると…ない。あのアクセサリーの分だけ送り状が無いのだった。それ以外のものはすべてキチンと整理してファイルしてあるのに。当時発送に使っていた3軒のコンビニ店にお願いして発送簿を調べてもらっても、あのときの荷物の記録はなぜか見つからなかった。結局手元に残ったのは写真だけ。当時は全国にわたる10数店とやり取りしていたので、考えられるのはそのうちのどこか別の店に送ってしまったということくらいだけど、活発にやりとりしていたのはその女性の店くらいだったし、全部宅配だったのに送り状が残っていないのは全くもってミステリー。デザインに苦労したこと、夜明けまでかかってジュエルを焼いたこと、真夏の焼けるようなベランダで写真を撮ったこと。(それもリバーサルフィルムで。)すべて鮮明に覚えているのに、あのアクセサリーはいったいどこへ行ってしまったのだろう??たしかに自分で梱包し自分で発送してるはずなのに。今思い出しても不思議でたまらない。当時けっこう可愛くできたという自負があって、デザインもはっきり覚えているけど、なぜかもう同じものを作る気が起きないのだった。

付記:海外作家で記憶怪談の要素がある小説。H・P・ラヴクラフト「時間からの影」はたしかそういう要素があったのを思い出した。

KAREN HOEPTING ~幸せの色、幸せの動物たち~



一昨年の年末のこと。何気に立ち寄った地元のホームセンターで売っていたカレンダーに、目が吸い寄せられた。おお☆なんて美しい色!私好み。一緒にいた夫も気に入って衆議一決、即お買い上げ。上の画像はカレンダーの表紙の絵をデジカメで撮ったもの。出来るだけ色を補正してみたけど、元のプリントはもっともっと美しい。

「Karen Hoepting」というアーティスト名をネットで調べた。(カレン・ホイップティングとしているところと、ヘプティングとするところがあった。正確な読み方は不明。)1976年カナダ生まれ。動物をモチーフに、主にオイル・オン・ペーパー(紙に油絵の具で描く技法)で、アクリルやクレパスなども使うらしい。油彩と知って驚いてしまった。この鮮やかで澄んだ透明感のある色彩は、アクリルだろうと勝手に想像していたからだ。油絵の具は描いているうちに混じりあいやすく、色が濁ってしまいがち。カレンさんは色が濁らないように、細心の注意を払い技術を磨いたのだろう。鮮やかな色彩に満ちているのに、澄んだ静謐さも感じさせるのが、やはり北国の人らしい。観る人の心をほのぼのと温かく、優しい気持ちにしてくれる絵だ。マゼンタ系の色を多用しているのがとりわけ好もしい。青みがかったピンク、赤紫、マゼンタ。私は大好きなのだけど、日本人はどうもこの色を使いこなすのが苦手。たしかにひとつ間違えるとどぎつい下品な雰囲気になってしまったりする。でも欧米ではよく好まれ、そのため欧米人はマゼンタを使いこなすのが上手だ。カレンさんも沈んだ濃い色で引き締めたり反対色を上手く使って、たくさんの色をケンカさせずにそれぞれを活かしている。暖色系なのに暑苦しくない。なんと素晴らしい色彩感覚、配分感覚でしょう!生き物が大変お好きだそうで、保護活動などにも積極的らしい。さもありなん。優しい心と愛が絵の中に満ちているもの。全ての生き物たちが幸福に世界と調和している、そういう理想の世界を描いているのだろう。このアーティストに出会えてよかった。
こんな風に人を幸せにできるものを作れたらなぁと思う。

Karen Hoepting 作品とアーティストの紹介
Karen Hoepting 作品ギャラリー

追記:Hoeptingの発音について教えていただきました。
オランダ系移民であることからおそらく「フープティング」だろうとのこと。

続・盗作事件に思う

(12/28前記事に続く)
ところで最近「なぜ、これがアートなの?」という本を興味深く読んだ。MOMAの著名な講師アメリア・アリナス女史による現代アートの入門書だけど、決してわかりやすい本ではない。考え込んだり後戻りしたりで、読み通すのに日数もかかったし、読了後も完全には理解できていない。内容の説明が難しいので、かわりに前書きから抜粋する。「この本はモダンアートの概論でも、美術史の解説でもありません。…本書が焦点を当てているのは作品そのものです。まず作品について語り、そして私自身が観察したことを述べることで解釈のプロセスを明らかにし、そこからなんらかの意味を引き出す作業に取り組んでみたいと思っています。…決まりきった方法論ではなく、注意深くそして意識を持って作品を鑑賞していくための、いくつかの例をここで紹介したいと思います。」そして作品の図版と対照しつつ、個々についての著者の考えが語られていく。対象になるのは(主に日本国内の)様々な美術館に所蔵されているモダンアート作品で、絵画だけでなく写真や立体、Found Objectsやビデオアート、パフォーマンスアート等も含まれている。
例えばある作品は大きなカンバスが真っ赤に塗りつぶされていて、両端だけが白いラインとして塗り残してある。一見すると「は???」って感じ。何の知識も無く美術館に入ってこの作品を見たら、「カンバスを塗りつぶすことくらい私だってできるよ」と思いそうだ。だけどこの真っ赤なカンバスがなぜ有名美術館所蔵なのか?という一般人の率直な疑問から、著者の説明をなんとか理解しようと読んでいった。著者はこの作品を「神の信託ほどに難解で神秘的な作品」という。そしてじっくり作品を前にしての印象から述べ、抽象芸術のはじまりから時代につれての変遷とその流れを丁寧に追っていき、絵が描かれた背景を考える。アーチストの生い立ちやそこから育まれたと思しい思想を推測し、これらを材料に再び絵を読み解いてゆき、「画家の独特な宗教観とイデオロギーが反映されている」と想像している。
正直な感想としては、アートの専門家でもない私が同じ作品を何時間眺めたとしても、著者と同じ感想にたどり着くのは無理だろうと思った。謹厳なユダヤ人の家庭に育ち生涯をアナーキストとして生きた画家が、ミニマリズムの潮流が”行き着くところまで行き着いた”時代に生み出した絵画。まずそういった理解がなしには、しっかりと鑑賞することは覚束ないように思う。(そもそもミニマリズム自体、それが生まれてきた時代的な認識なしには理解が難しいように思う。)冒頭で「焦点を当てているのは作品そのもの」とあるが、アリナス女史の鑑賞方法は専門家としての深い知識や芸術への理解、そしてアーチストについての豊富な情報に基づいている。
ここで私は思った。私たちが通常美術館などで観るアート作品は、必ず先に誰かが評価したものだ、という当たり前のことを。アートの専門家によって評価され選ばれた作品だけを私たちは鑑賞し、「よくわからないけど美術館にあるのだから、多分優れたアート作品なのだろう」と無意識かつ大雑把に納得している。専門家が道しるべとなり私たちに理解の筋道を示してくれれば、初めて真っ赤な絵にも興味が沸くし、その背景にある時代やムーブメントにも興味が向いたりする。完全に理解できないなりに、なるほどそうやって観るのかと思ったりする。

芸術選奨盗作事件に興味を覚えたのは、以前から疑問に思っていたことが一瞬形になって見えたような気がしたからだった。つまり、美術館にある作品がなぜ選ばれてそこにあるのか、そして選ばれなかった作品はなぜ選ばれなかったのか、ということ。
うーん、説明が難しい。例えば素人目に見て、有名な作品と比べてもあまり違いがわからない作品を見ると、なぜこっちは美術館に展示されないのかな、と思ったりする。ミニマリズムが流行したときにはカンバスを塗り分けたような絵を描いた画家は有名無名を問わず大勢いたはずで、おそらくそれらを並べて見ても、一般人の私には優劣などわからないに違いない。どこで優劣や価値を判断してるの?できることなら専門家なり批評家なりに質問してみたかった。
しかし、事件のお陰で少しだけわかった気がする。つまり作品そのものだけでは、専門家でも”そっくりさん”を見分けられないということだ。(芸術選奨の選考委員は美術の専門家以外の人が半数以上という指摘があったけど、盗作は10年以上前からであり、和田が同賞に推薦されるまでに築いてきた名声には多くの美術界人が与っているに違いないと思われる。)

でも、「なぜ、これがアートなの?」の第二章ではこうも述べられている。「一般的な考えには反するかもしれないが、作品の意味は作者の責任外の問題である。意味は鑑賞されることによって付加されるものなのである。」「”アーティストは何をいいたかったのか”というよりは、”この作品は何を意味するのか”という方がより適切な問いだといえる。作品の技術、オリジナリティがどれほどであろうが、作品にとって重要なのは作者の意図がいかに表現されているかではなく、結果的にどれほど鑑賞者の意図を引き出せるかということなのである。」
…そうすると、日本美術界のお歴々から高い評価を受けてきた和田の絵は、立派なアート作品ということになるのだろうか?
おそらく今度の事件はすべての創作に関わる人たち、特にその専門家に属する人たちにとって、虚を突いた事件だったのかもしれない。プロであれアマであれ自分の内にあるカオスを目に見える形にする行為が創作である、という部分を、多分疑わないで出発点としていたのだ。私はここまで和田の絵を盗作と言い切ってきたしその考えは今も変わらないけど、盗作と考える根拠をはっきり示そうとしても、上の文章を読んだ後はなんだかきっぱり言い切れない気持ちになった。アリナス女史の言葉は生み出された後の作品の定義だと思うけれど、「そもそもアートを創作するとはなんなのか」から考えていかないと、疑問への答えは見つからないかもしれない。
しかし和田の問題では、いわゆる創作関係の著名人からは「盗作とは言い切れない」という意見がいくつか出ていたけれど、一般人の常識的な感覚では「他人の絵をほぼそっくりに丸写ししたら模写でしょ、それを黙って発表したら盗作でしょ」と思うし、現時点で世の中のほとんどの人はそういう意見だと思う。芸術とは社会的なもの・開かれたものであるという大前提で言えば、アートとは何ぞやの迷宮に落ち込んでしまうより、一般常識で断ずるのもありだろう。

…なんだかどこへも着地できないまま堂々巡りをしている気がする。もともとアレが盗作だったかどうかということはどうでも良いので、自分の持っている疑問に、事件を引き合いにして少しでも光明が当てられれば良いと思っていたのだけど。結局疑問はさらに新たな疑問を生んでいくのだった。まぁいいや、こうして考えては書き、疑問を持ったら調べてまた書いて。そうやってほんのちょっとずつでも考えを進めていければ、雑文も少しは我が身の肥やしとなろうというものだ。
プロフィール

胡舟

Author:胡舟
北海道オホーツクに在住し北の海のクラフトを作っています。

カテゴリー
スポンサードリンク
Arcive
リンク
MOON
CURRENT MOON
検索フォーム