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応答願ウ

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BUMP OF CHICKEN3年ぶりのアルバム「orbital period」を毎日聴いている。何度聴いても毎回心にグッと来るものがあって、今度もやっぱりBUMPにはやられてしまった。なんとゆうのだろう、9割方ダレている時に魂の底の底の方にある水たまりを震わせられて、じわじわと体の奥から奮い立たせられるような感じ。
発売日に買ってきたCDをプレーヤーに滑り込ませて最初に聴いた印象は「前とだいぶ音が変わったな」「書き下ろしの曲、難解なのばっかり」「昔みたいな若さのある曲はなくなった」...
久しぶりのアルバムは嬉しかったし、洗練度の増したサウンドもメロディセンスも相変わらず優れてると思ったけど、ユグドラシルの時みたくスッとこなかった。ふうん、今度のはこうなの、みたいな。ユグド後の楽曲は荒削りな魅力が次第に失くなってまとまってきてるように感じてた。それが成長なのだろうけど寂しくもあり。いよいよこれは卒業かな…
絵本になっているブックレットを読んだら「はは自分のコトみたい」って可笑しくなって、そのうち不覚にもうるっと来て、アルバムとの距離が少し縮まった気がした。
翌日改めて通して聴いていたら、ふいにぐっと胸が詰まった。作業しながらBGMにして聴き流していたのに、それはまったくふいに来て自分で驚いてしまった。アルバムを通して漂う崇高な孤独感に打たれ、喉いっぱいに唄う藤くんに打たれた。果てしない宇宙空間の一箇所にぽつんと浮かんで通信を送り続ける存在の、強く透明な孤独。藤原君が(結果的にBUMPというバンドが)持つ本質的な孤独が強く感じられた。冬空のひとつ星のような、人々を導く勇者のような気高い孤独。BUMPがこの3年間ひたむきに自分たちを磨き続けていたことが彼らの音から信じられた。孤独を磨き続けるってとても難しいと、わが身に照らしてつくづく思う。孤高だなんて気取ってみてもいかにすぐ怠けてしまうことか。小人の孤独が行き着くところは所詮退化になりがち。孤独が輝いて見えるのは偉大なことなのだ。
CDを聴きながら思い出したお話がある。たしかロシアか北欧の「燃える心臓」という民話。
ある貧しい村があった。自然は厳しく土地は痩せていて、苦労して耕してもろくに作物も採れない。人々は長い間みじめに生きてきた。ついにある若者が立ち上がった。「ここを捨てて新しい土地を探しに行こうではありませんか」しかし村の周囲は深い暗い森で、それを抜けるのに幾月かかるのかもわからない。若者は「僕が先に立ちますから後についてきてください」と熱心に言った。そこで人々は若者に従って村を後にした。苦しい旅が何ヶ月も続いた。弱った人が出るたびに若者は皆を励まし、力づけながら旅を続けた。しかしいっこうに森が尽きる様子は無い。食べ物が少なくなり人々は疲れ果てていた。皆の中で疑いと不満が次第に大きくなっていった。若者が「さあもう少しの辛抱です、行きましょう」と一生懸命声をかけても、座り込んだままとうとう誰も動こうとしなくなった。そして「こんな苦しい思いをしても森から出られないじゃないか、お前が皆を惑わせて村を捨てさせたりしなければ良かったのだ」と逆に若者に詰め寄った。若者は腹が立った。何の希望も無くどうすることも出来なかった人々がなんとかここまで進んで来られたのは、若者の勇気が皆を率いてきたからなのに。でも暗い顔をして希望も無く座り込んだ人々を見ているうちに、若者の胸は痛ましい思いで一杯になった。この弱い気の毒な人たちをどうにかして導いてあげることは出来ないのだろうか?若者はナイフを取り出すと、自らの胸を裂き心臓を取り出した。その心臓は赤々と燃えていた。「僕は皆をきっと新しい土地に連れて行ってみせる。この燃える心臓がその証拠だ」そして心臓を松明のように高く掲げて歩き出した。暗い森の中を赤々と染めて燃える心臓、その不思議な光景に魅せられて、人々は我知らず立ち上がり若者について再び歩き出した。もう誰も何も言わなかった。皆の目はただ燃える心臓に惹き付けられていた。こうして数日間歩き通しついに森の外へ出たのだった。広々とした土地で抱き合って喜び合う人々は、いつしか倒れて冷たくなっている若者のことはもう忘れていた。
なぜこの話を思い出したろう。きっとBUMPがこの若者のような使命を持った存在なのだと思う。「新譜 暇つぶし」で聴き始めた私がいつの間にか声を合わせて歌っていた。「その唇から零れ落ちたラララ」本当その通りだった。ひ弱で愚痴っぽく不平不満だらけの私に優しく粘り強く熱っぽく、演奏と歌で繰り返し通信を送ってくれてたんだ。やっぱり自分にはBUMPが必要、強くそう思った。ある種神秘的というか神々しいような存在感がBUMPに備わったように思った。
絵本をじっくり読んでいるうちにアルバムの意図もだんだんわかってきた。星の鳥の形はBUMP OF CHICKENのマークの形に似てて、絵本のラストで大地に作り上げた星の鳥へのサインが、アルバムジャケットの裏面で星の鳥=BUMPのマークというダブルイメージになっている。(このジャケデザインが見事。)そしてラストで再び姿を現す星の鳥は、終わりがまた始まりへと繋がっていることを表してるんだと思う。ジャケットの表と裏だ。音楽・絵とお話・ジャケットデザインが全てシンクロしてひとつの世界を感じさせる。そう理解してから聴くとvoyageからfly byまで、3年分のシングルを包容しつつ一本のファンタジーとなってスーッと聴くことが出来、同時にorbital periodの広大な世界が眼前に浮かび上がってくる気がした。
思えばBUMPの音楽の核にあるものは昔から一貫して変わってない。常に普通の人、弱い人、心に痛みや怖れを抱えた人に向けて放たれた歌は時には心の深部にささやきかけるように、時には少しは離れて見守るようにあるいはガツッと、各曲に現れるテーマは”人との関わり”だったり”自分を救えるのは自分自身”だったり色々だけど、常に「生きること」を歌う。生きることを純粋に見つめ突き詰めていこうとする結果、高次元に、ほとんど哲学的に命を捉えているように思う。でも決して上から目線じゃなく弱くて逃げ腰で僻みっぽい人間だからこそ愛しい、限りある命だからこそ尊い存在として、心の痛みや傷や闇に向けて「自分の弱さや痛みの在り処に気づいてそれを認めることができたら、初めて本当の自分となって一歩前へ進めるんだ」と歌う。LUMPでもダイヤモンドでもロストマンもそうだった。だからいつか切り取られ仕舞いこまれたはずの涙や沈黙、弱い自分から思い出して欲しくて「応答願ウ」と絶えず通信がきている。それに気づいて傍受できるようにと繰り返し歌う。本当の勇気は自分自身の中にあるんだよと。おそらくきっと藤原君自身が同じ経験をしてるのだろう。迷い時に苦しみ、自問自答を繰り返す中でつかんできた思想なのだろうと思う。
orbital periodはこれまでの集大成というより、これまで歌ってきたメッセージをよりいっそう深く掘り下げ、愚直なまでに何度も繰り返し伝えようとしてるように感じた。アルバム書下ろしの曲がやや重めのものが多いのも似たような曲が多いように感じるのも(あくまで一聴の印象。ちゃんと聴くとそれぞれ固有のカラーと広がりを持ってることに気づく)そのためかと思うし、随所にシンセサイザーなどを多用したサウンドも、シングルとまとめて全体としての統一感を出す必要性と、アルバムとしての世界観とテーマを打ち出したい意図からだと思う。ユグドラシルにあったエンターテイメント性や親しみやすさをいくらか抑えてでも、orbital periodではアルバムを通してひとつのテーマを表現し、ひとつのメッセージを切実に伝えたいんだという強い思いを感じる。シングルは曲調がけっこうバラエティに富んでてまとまるのかなと思ったけれど、導入とエンディングの短い曲、2度挿入される星の鳥のテーマが効果的で、通して聴いてみるとどのシングルにも共通するテーマが存在していたことに改めて気づかされる見事なまとめ方だった。間違いなくこのアルバムでBUMPはひとつステージを上がったと感じる。
特に「メーデー」はシングルで聴くよりもアルバムの中で聴く方がずっと良い。voyageと星の鳥が物語の導入として豊かなイメージを喚起させておいてそのままするっとメーデーに繋がる快感を知ってからは、必ず3曲順番に聴かないと気が済まなくなってしまった。
「飴玉の唄」は涙がこぼれそうになる。(飴がアーメンて聴こえるのがちょっと..だけど)愛する者を見送った時を思い出す。儚い命が燃え尽きるときはなんて尊く輝くのだろう、まるで超新星みたいに。自分にとってなんて大きな存在だったんだろう…無辺の宇宙空間にただ「ぼく」と「君」しかいないように感じてたあの時が蘇って切ない。
あと個人的に「才悩人応援歌」「ハンマーソングと痛みの塔」「fly by」が好き。シングルではやはりメーデー(BUMP独特の心地よさがある曲)。ラストのfly byは最初のvoyageに呼応する曲で、ここでも「終わりははじまりに続いてゆく」モチーフが現れる。
ここ数年バンプが一歩づつ確実にメジャーへの階段を上りつつあるのを感じて置いていかれる寂しさや裏切られたような苛立ちを感じているファンも多い(アルバムを聴く前までの私を含めて)。そうした声はおそらくBUMP自身にも届いていると思う。そのことへのアンサーもこのアルバムに込められていると感じた。「才悩人応援歌」の「自分のために歌われた唄などない」と思っている平凡で愚痴っぽい”その他大勢”人の「その耳だけ目指す唄」を精一杯歌っているよ、今もこれからもずっと。これがBUMPからのアンサーじゃないだろうか。ひとつひとつの歌にまさに魂を込めて歌っている藤君のヴォーカルからも強い意志が伝わる。BUMPの音楽はとてつもなく大きな世界を持っているし、特に今度のアルバムは通り一遍に聴いただけでは十分に理解しにくいのだと思う。絵本もちゃんと見てきちんと歌詞を読みつつアルバムを何度か通して聴く、全てを一遍の小説のように読み込んでいくことによって、orbital periodの世界観の広がりを初めて良く感じられると思う。
古くからのファンの間には昔のBUMPじゃなくなってガッカリという声も多い。BUMPのは人の心の痛みに向けて放たれている音楽だ。BUMPがもう無くても平気だという幸いな人は順次卒業してゆけばいいと思う。私はorbital periodを聴いてそのつもりは無かったのに勇気を与えられるのを感じて、自分にはBUMPの音楽が必要なんだとはっきり思い知ったから、無意識にでもBUMPの音楽を切実に必要としてる人には必ず深奥に触れてくるものがあると思う。そういう音楽なのだきっと。
今までいい歳してBUMPを聴いていることに照れがあったけれど、新作を聴いてからそんな気後れは無くなった。BUMPは今やステージを上がり、深い音楽世界を持つ大人のアーチストになったんだから。でも多感な若い時代にBUMPに出会えた人を羨ましく思う。またBUMPなんて子供が聴くもんだと思ってまったく出会うことも出来ないでいる人はお気の毒様だ。(実際私の同年代で聴いてるって人に会ったことが無いし、「ウチの子供がよく聴いてるよ」と言われてガックリすることがしばしば。)
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珊瑚のクリスマスツリー



2007年クリスマスクラフトとして作ったツリー「LAGOON CHRISTMAS」。
サンゴ片を積み上げて、間に色付きタンブルと水晶ポイントを飾った。下には沖縄の砂を敷いて南の島の雰囲気に。トップには星の代わりにヒトデを飾った。

海のクラフト 胡舟クラフト

CD

今年もけっこうな数CDを買った。人に比べたら全然少ないと思うけど、自分としては人生で一番のハイペース。去年からなけなしの売り上げがほぼCDに化けてる気がする。
リビングで使っていたCDプレイヤーが壊れたので買い替えた。古い方を捨てる前に中を開けていじったら中途半端に治ってしまい、もったいないので自室兼作業場で使い始めたら、すっかり作業中に音楽をかける習慣がついてしまった。ずっと「無音が一番」だったのに、きっかけなんて他愛ないもの。BGMは耳障りにしか思えなかった都会の垢がいつの間にか落ち切ってたのだろうか。
手持ち分は何度か聴いたら飽きてしまい、まずクラシック→ジャズ→R&B→J-POP(ROCK)と変遷しつつ購入。動画サイトで手軽に音楽を聴けるようになったのもCD購入に拍車をかけている。著作権のある楽曲をyoutubeなどネット上にアップするのが問題になっているけど、少なくともそうした行為がCD等の売り上げを阻害してるという主張は、全然間違いですね。私はむしろ逆。ようつべやニコニコを見るようになってから「やべーこれマジ欲しい」って何枚CDを買ったことか。新しいアーチストもたくさん知って「今後購入したいリスト」もパンパンの状態だ。そうなってみると不思議なことに「私ってこういう傾向の音楽が好きだったのか」と新たな自己発見があったりする。嫌いだと思ってたロック(UK、J)が意外と好きというのも新発見だったし。長いこと関心を向けなかった分、これから引き出しの中身を徐々に増やしていきたい。
だけど”一日中音楽無しにはいられない人”にはなりたくはないので気をつけたい。やはり音楽は麻薬みたいなものだと思う。屈託してても気に入りの曲をかけてノリノリでネットでもしてるとあっと言う間に時間が経ってしまい、それはそれでいいやとなってでもこれでいいのかとふと薄ら寒く感じたり、最近そんな日が多くなっている気がする。耳を鈍磨させないように、風のそよぎ鳥の声木々のざわめきなど自然の微かな調べにいつも感応できるように。

庭の作業

連日寒さが厳しい。ストーブで燃す枯れ枝を庭で拾い集める。毛糸の帽子マフラー古いダッフルコートにゴム長靴という完全防備で、マイナス気温の庭に出る。うっすら白い雪をかぶった落ち葉をかき分けて、小枝や松ぼっくりや枯葉を拾って麻袋に突っ込んでいく。農家で使う丈夫で大きな麻袋はたくさん詰め込めて、干草とサンドイッチが詰まった白の王様の使者ハッタの袋みたい。人気もなくてとても静か。人が見たら冬の庭で何やってるのかと思うだろうか。寒くて小一時間が限界だけど楽しい時間。もう少し雪が積もったら枝拾いもおしまい。

10月から11月いっぱいかけて、作業場の時計ストーブ用焚き木を独りで作る。夏の間に伸びた庭木の枝を切っては庭の隅に積み上げておいたのを、長さをそろえて鋸で挽いてゆく。庭の一隅に小さな折りたたみ椅子を出して、日が沈むまで毎日毎日ひたすら枝を切る。太い木は小枝を鉈でパチパチ叩き落してから専用鋸で切って小屋の床に積み上げ、細枝は束ねて麻紐で縛って小屋に運ぶ。何日もやっていると手が痛い。しんどいけどこの期間が好きだ。家事もクラフトも脇へやって、日ごとに短くなる太陽とすぐそこまで来ている雪との競争。やっと小屋が焚き木でぎっしりになると「どんなもんだい」と思う。さぁ、冬来い。

二階の屋根より高い赤松を筆頭に楓、エゾノコリンゴ、イチイ、エゾ松、白樺、山桜、ミズナラ、マユミ、ヤチダモ、名前のわからないヒノキ、ニオイヒバの垣根…。低木はエゾムラサキツツジやエゾシャクナゲ、イソツツジ、ノリウツギ、ライラック、ハイビャクシン、セッコウボクなど北海道在来の植物。周囲の家に比べ明らかに鬱蒼としてる、木の多いこの庭が好き。木が姿を隠してくれるから、木の下にしゃがんでいつまでもぼーっと外を見ていられる。でも夏に枝が伸びてくると暗くなるので、鋸を持ち出して自分で枝を切る。その枝下ろし作業がまた大好き。ちょっとで止めるつもりでも、ついついあっちもこっちも切って廻ることになる。北の木は成長が遅いのかと思っていたら、白樺や楓などは呆れるほど早い。繁った枝や枯れ枝を切り取って風と光を当ててやると、木が喜んでいる気がする。

花を育てたりお洒落に飾るより、私が庭でしていたいのはこういう作業なのだ、きっと。土の中から石を拾い出したり、積んだ枝が腐って出来た腐葉土を小さなスコップでかき集めたり(枯れ枝の間から「一大事!」とばかりに小さな虫たちがたくさん出てくるのが面白い)、枯葉を集めて穴を掘って埋めたり。そういうことをしてるとき、しみじみ幸せだなぁと思う。自由に枝を切れる木や、好きなときほじくれる土がある幸せ。庭の無い生活は考えられない。以前はガーデニングが好きなのだと思っていたけど、そうでないことがだんだん判ってきた。鉢で植物を育てるのが苦手だし、一年中花の絶えない庭を造る計画性もない。植えてるのは大雑把な自分に見合った丈夫な多年草ばかり。それより土に触れ木や草の香りを嗅ぎ、地面の雑草を抜き知らないキノコを見つけたりしたい。そういうことをしているとき、自分の魂がゆっくりと安らいでゆくのを感じる。

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プロフィール

胡舟

Author:胡舟
北海道オホーツクに在住し北の海のクラフトを作っています。

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