HVALA OSIM
イビッツァ・オシム氏が日本を離れるとのニュースを知って泣きそうになった。サッカー音痴だけど日本代表監督就任以来マスコミから伝わる”語録”に触れて徐々に気になり始め、「オシムの言葉」という名ルポルタージュと出会って大変感動し尊敬するようになったのだが、オシムが倒れたのがその直後。前より少しは見方が判るようになってきたので、ぜひオシム流サッカーの完成を見守りたかったのだけど、本当に残念。それ以上に私淑していた大切な支えが遠くに行ってしまうようでとても寂しい。現代の日本人が失ってしまっている、苦難の中で磨かれた強い精神力と知性、困難に立ち向かう叡智、時に厳しくハートは暖かくウィットやユーモアを兼ね備えた人柄。偉大でかつ魅力的な人だと思っている。私たちに真の知性とは何かを教えてくれる傑出した存在として、サッカーに興味がある人も無い人も、もっとオシムに興味を持つ人が増えればいいのだろうけど。もっと日本に居て欲しかったなぁ。でも体調を万全にして、また世界のどこかでグランドに立つオシムさんをぜひ拝見したいものだ。HVALA!OSIM ありがとうオシムさん。またいつか。

同じ思いのブログ。舌足らずな私の文章よりも、オシムさんが日本サッカーにいかに功績を残したかがわかりやすく、離日を惜しむ思いが伝わってきます。
☆帰らないで!オシム氏退任 (読みやすい文章でとても共感しました)
イビツァ・オシム氏 アドバイザー退任
シュワ-ヴォ・オスタニ! 強奪して追い払うJFAよ、その無節操さを恥じれ!
オシムさん、ありがとう

同じ思いのブログ。舌足らずな私の文章よりも、オシムさんが日本サッカーにいかに功績を残したかがわかりやすく、離日を惜しむ思いが伝わってきます。
☆帰らないで!オシム氏退任 (読みやすい文章でとても共感しました)
イビツァ・オシム氏 アドバイザー退任
シュワ-ヴォ・オスタニ! 強奪して追い払うJFAよ、その無節操さを恥じれ!
オシムさん、ありがとう
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ファンタジア
『ファンタジアと発明を利用する方法である想像力は、形成されては絶えず変化しつづける。
この想像力は機敏で柔軟な知性を必要とする。
つまり、いかなる種類の先入観からも開放された精神、
どんな場合にも自分のためになることなら何でも学び取ろうとする精神、
より適切な意見に出会ったならば自分の意見を修正できるような精神を必要とするのである。
したがって、想像力のある個人とは、絶え間なく進化しつづけるのであり、
その想像力の可能性は、あらゆる分野において、絶えず新しい知識を取り入れ、
そして知識を広げつづけることから生まれる。
想像力を欠いた人とは不完全な人であり、
そういった人の考え方は、目の前に立ちはだかるさまざまな問題に立ち向かえず、
おそらくいつも想像力のある誰かに助けを求めなければならないだろう。 ‥
想像力のある人は、常に共同体から文化を受け取り、そして与え、共同体とともに成長する。
想像力のない人は、だいたい個人主義者で、
頑なに自分の意見を他の個人主義者のそれと対立させようとする。
個人的問題よりも社会的問題に従事するほうがずっと正しい。
社会的問題は集合体に関わるものであり、これまでも、そしてこれからも存在しつづける。
集合体の文化的成長は、個人としてのわれわれに、
つまり、われわれが集合体に与えるものにかかっている。
われわれは集合体そのものなのだ。』
ブルーノ・ムナーリ(Bruno Munari) 「ファンタジア(Fantasia)」より
ブルーノ・ムナーリはイタリアの美術家で、グラフィックデザインやプロダクトデザイン、彫刻、絵本など多彩な活動をした人。優れた教育者でもあったそうだ。ムナーリの絵本を探していたのだけどたまたまこの本を見つけ、最初は翻訳物特有のとっつき難い文章に苦労したけど読み進んでいくうちに大変感銘を受けた。かといって内容を説明するのは難しい、何度も読み返しているけどまだまだ理解できていない。人類の創造活動の元になっている自由な着想や突飛な思い付きをする能力をムナーリはファンタジアと名づけた。ファンタジアと想像力、発明、創造力を自由に働かせ活用させてクリエイティブになるにはどうすればよいのかを、多数の美術品や写真やプロダクトを実例として引用しながら解りやすく解説してゆく。クリエイティブになるというのは単に芸術や創造の分野の専門家になることではない。日常生活を人生を豊かに、幸福なものにするために重要なヒントなのだと思う。そのことについて書いているのが上の文章。深く感動したこの一文を自分の覚書として上に写した。特に「想像力を欠いた人とは」以下の文は昨今の犯罪を思い浮かべて感じるところがある。
この想像力は機敏で柔軟な知性を必要とする。
つまり、いかなる種類の先入観からも開放された精神、
どんな場合にも自分のためになることなら何でも学び取ろうとする精神、
より適切な意見に出会ったならば自分の意見を修正できるような精神を必要とするのである。
したがって、想像力のある個人とは、絶え間なく進化しつづけるのであり、
その想像力の可能性は、あらゆる分野において、絶えず新しい知識を取り入れ、
そして知識を広げつづけることから生まれる。
想像力を欠いた人とは不完全な人であり、
そういった人の考え方は、目の前に立ちはだかるさまざまな問題に立ち向かえず、
おそらくいつも想像力のある誰かに助けを求めなければならないだろう。 ‥
想像力のある人は、常に共同体から文化を受け取り、そして与え、共同体とともに成長する。
想像力のない人は、だいたい個人主義者で、
頑なに自分の意見を他の個人主義者のそれと対立させようとする。
個人的問題よりも社会的問題に従事するほうがずっと正しい。
社会的問題は集合体に関わるものであり、これまでも、そしてこれからも存在しつづける。
集合体の文化的成長は、個人としてのわれわれに、
つまり、われわれが集合体に与えるものにかかっている。
われわれは集合体そのものなのだ。』
ブルーノ・ムナーリ(Bruno Munari) 「ファンタジア(Fantasia)」より
ブルーノ・ムナーリはイタリアの美術家で、グラフィックデザインやプロダクトデザイン、彫刻、絵本など多彩な活動をした人。優れた教育者でもあったそうだ。ムナーリの絵本を探していたのだけどたまたまこの本を見つけ、最初は翻訳物特有のとっつき難い文章に苦労したけど読み進んでいくうちに大変感銘を受けた。かといって内容を説明するのは難しい、何度も読み返しているけどまだまだ理解できていない。人類の創造活動の元になっている自由な着想や突飛な思い付きをする能力をムナーリはファンタジアと名づけた。ファンタジアと想像力、発明、創造力を自由に働かせ活用させてクリエイティブになるにはどうすればよいのかを、多数の美術品や写真やプロダクトを実例として引用しながら解りやすく解説してゆく。クリエイティブになるというのは単に芸術や創造の分野の専門家になることではない。日常生活を人生を豊かに、幸福なものにするために重要なヒントなのだと思う。そのことについて書いているのが上の文章。深く感動したこの一文を自分の覚書として上に写した。特に「想像力を欠いた人とは」以下の文は昨今の犯罪を思い浮かべて感じるところがある。
山へ柴刈りに
(※11月4日に書きはじめた記事)
去年庭木の枝下ろしに大鉈を振るったおかげで、今年は枝ゴミが少ない。それはいいけど太い薪の方が予想外に出てしまったので、私のブリキ時計ストーブで太い薪を燃やすには相当量の小枝が必要。仕方ないので裏山に枯れ枝を拾いに出かけた。「おじいさんは山へ柴刈りにいきました」の”柴刈り”である。
裏山は白樺とカラマツの植林山で、木は数年おきに計画的に伐採される。伐採が終わった後が無残な姿をさらしている場所がある。(次の植林までわざとそうしておくのか植林できないでいるのかはわからない。林業不況で伐採後の山に次の植林をしないケースが増えて山の荒廃が問題になっている。)重機が走り回った後の荒れてデコボコの地面に、材木にならない雑木が切られて積まれている。良い具合に枯れてて絶好の焚き木だけど、泥がついていない木を探すのがかなり手間。足場の悪い枝の山に座り、ひたすらポキポキ枝を集めて適当な量になったら麻紐で束ねる。夢中でやったけど思ったほど捗らず、1時間ほどで二人で4束しか出来なかった。でもこういう作業は決して嫌いではない。むしろなんともいえない充実感。「できることなら毎日通ってこの枯れ枝を全部片付けたい」とすら思ってしまう。
どうも私は荒れた土地をきれいにすることに魂レベルでの喜びを感じるらしい。雑草を抜いたり石ころをひろって地面を鍬でならしたり古い株を掘り起こしたり枯葉を集めて穴掘って埋めたり木に登って高枝を下ろしたり、ガーデニングとは言えない雑用作業の方を俄然張り切ってやる。放置された林を見るとはびこった下草と蔓草を刈りたいと思うし、公園の花壇でも雑草が生えてるとついむしったりする。庭の隅に刈り草と枝を何年も積んでおいた堆肥の山をほじくり返して、中から分解しきれない枝(真っ黒で発酵臭がしてる)を拾い出したり、ミミズが作った土をスコップでかき集めたり、それを何時間も嬉々としてやっていられる。傍からは変人に見えるだろうな。でもそれが至福の時間。地面にしゃがむのが私の幸福。
歳をとってクラフトも出来なくなったら、草取りばあさんになろうと思っている。街路樹の下とか公園の花壇とか。ばあさんなら人目も気にしないで没頭できるはずだし、もしもささやかなお足が戴けたりしたらなお幸せ。
去年庭木の枝下ろしに大鉈を振るったおかげで、今年は枝ゴミが少ない。それはいいけど太い薪の方が予想外に出てしまったので、私のブリキ時計ストーブで太い薪を燃やすには相当量の小枝が必要。仕方ないので裏山に枯れ枝を拾いに出かけた。「おじいさんは山へ柴刈りにいきました」の”柴刈り”である。
裏山は白樺とカラマツの植林山で、木は数年おきに計画的に伐採される。伐採が終わった後が無残な姿をさらしている場所がある。(次の植林までわざとそうしておくのか植林できないでいるのかはわからない。林業不況で伐採後の山に次の植林をしないケースが増えて山の荒廃が問題になっている。)重機が走り回った後の荒れてデコボコの地面に、材木にならない雑木が切られて積まれている。良い具合に枯れてて絶好の焚き木だけど、泥がついていない木を探すのがかなり手間。足場の悪い枝の山に座り、ひたすらポキポキ枝を集めて適当な量になったら麻紐で束ねる。夢中でやったけど思ったほど捗らず、1時間ほどで二人で4束しか出来なかった。でもこういう作業は決して嫌いではない。むしろなんともいえない充実感。「できることなら毎日通ってこの枯れ枝を全部片付けたい」とすら思ってしまう。
どうも私は荒れた土地をきれいにすることに魂レベルでの喜びを感じるらしい。雑草を抜いたり石ころをひろって地面を鍬でならしたり古い株を掘り起こしたり枯葉を集めて穴掘って埋めたり木に登って高枝を下ろしたり、ガーデニングとは言えない雑用作業の方を俄然張り切ってやる。放置された林を見るとはびこった下草と蔓草を刈りたいと思うし、公園の花壇でも雑草が生えてるとついむしったりする。庭の隅に刈り草と枝を何年も積んでおいた堆肥の山をほじくり返して、中から分解しきれない枝(真っ黒で発酵臭がしてる)を拾い出したり、ミミズが作った土をスコップでかき集めたり、それを何時間も嬉々としてやっていられる。傍からは変人に見えるだろうな。でもそれが至福の時間。地面にしゃがむのが私の幸福。
歳をとってクラフトも出来なくなったら、草取りばあさんになろうと思っている。街路樹の下とか公園の花壇とか。ばあさんなら人目も気にしないで没頭できるはずだし、もしもささやかなお足が戴けたりしたらなお幸せ。