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ワイヤーのオートマタ

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ワイヤーのオートマタ「プロペラの塔」。右のハンドルを回すとくるくるプロペラが廻る。銅板と銅ワイヤーは黒く燻して雰囲気を出した。回転ドラムは木の丸棒を切って作った。ドリルで穴を開けるときどうしても真っ芯から多少ずれてしまうため、動かすとドラムや心棒がうねって見える。それが手作り感としてトイっぽい雰囲気を強調してるとも言えるけど、正確に出来るに越したことはないので、技術を向上するよう努めたい。(とはいえボール盤などを使わないで真っ芯に穴を開けるのは至難の業なのだけど…)持ち手のウッドビーズを含め全て手作りした。まだまだ未熟ながら、ようやく完成した動くクラフト第一弾。

西洋からくり人形のことをAUTOMATAと呼ぶ。もっともその語源は自動機械のことで、機械といっても昔の手巻き式時計のようにゼンマイなどで組まれた手作りの機械、仕掛け、カラクリなどの総称としての自動機械。現在では人形だけでなく動くからくりおもちゃなどもそう呼んだりするようなので、それに倣った。automataとかkinetic sculputureだとかPerpetuum mobileだとか、西洋には動くカラクリ物体に対する言葉が豊富だけど、日本語だとぴったりした表現が見つからなかった。「動くおもちゃ」ではなんだか子供っぽいし、といって何でもオブジェで片付けるのも残念な気がする。おもちゃに代わる「大人が精神を開放し遊ばせる遊具」を表すうまい言葉があればいいのに。

オリジナルクラフトとアクセサリー 胡舟クラフト
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帆立貝のスタンドライト



「帆立貝のスタンドライト」
帆立貝とスタンドに貼り付けた小石は地元オホーツクの浜で採取したもの。その他に能登の鳴き砂、房総のフジツボなども使っていて、全て自分で採取した。ホタテ貝殻は薄ピンクがかったもの、アイボリーのものなど色幅があり、全体では真っ白に見える。貝殻の白さが引き立つように表面に目の細かいサンドペーパーを丁寧にかけてから磨き、ニスを塗って保護している。この「貝殻のサンドペーパーがけ」がもう大変。粉が舞いちって頭も顔も真っ白になる。

北の海のクラフト 胡舟クラフト

黒檀と銅板のキーホルダー

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黒檀と銅板のキーホルダー「HEART OF CRUSADER」。
ハートモチーフが好きでよくクラフトに使うけど、ミラーを粉々に砕いてからハート形の色ガラスに貼り付けたり、金属板のハートを腐食させて穴をたくさん開けてコードをつないだりと、ヘソ曲がりな使い方ばかり。ハートは不思議で奥深いモチーフ。ちょっとしたデザインの違いでぜんぜん別の表情を持つようになり、スウィートにもハードにもそれなりにまとまる。ヘソ曲がりとしては禁欲的・退廃的・サディスティックとかおよそHEARTFULとは真逆方向に弄ってみたくなる。今回は金属の甲冑で固めたハートをイメージして、黒檀材に銅板を嵌め込んで丸玉パーツでアクセントをつけた。燻した銅の渋さに合うよう、黒檀の磨きは光り過ぎないよう控えめに。フック式金具なのでジーンズのベルトループやバッグなどにつけて、素材感とややハードな表情を楽しむお洒落アイテムとしても活用してもらいたい。
創作クラフト&アクセサリー 胡舟クラフト

甲冑→騎士→十字軍の連想で名前をつけたけど、名前も作品同様どことなくゲームアイテムみたいな雰囲気かも。私はゲーム・アニメ・漫画は社会人になると同時に卒業しているし、いい大人までがアニメやゲームにどっぷり漬かった今の風潮が嫌いだけど、かといってそういうものの影響を受けていないわけでもない。今日のアートやデザイン、というか文化全体が大なり小なりアニメ漫画ゲームの影響を受けているし、特に若いクリエイターでは顕著。自分も若いアーチストの作品をカッコいいと思ったり、スチームパンクやサイバーパンクに魅せられたりPerfumeやBUMPを好んだりするのは、遠回りに影響を受けているということになるのだろう。漫画アニメ時代のアート(文化)の傾向は「二次創作的」なのだが、自分の銘木ストラップシリーズにも二次創作的な傾向があると思っている。

つれづれに思うこと

どう死を迎えるかは大切なことだと思う。当人にも周囲にとっても。けれど呼吸が続く間はやはり生きることを考えたい。カウントダウンにおびえながら過ごすよりも明日咲く花を楽しみにしたい。それは思考停止、たんなる願望に過ぎないのだろうか?

***

いつからか仏教ではなく釈迦の教えの本質を知りたいと思うようになった。連休中も、早い田舎の夜のもてあました時間に、般若心経の本を読んでいた。そしてふっと一番最後の真言「羯諦羯諦…」の謂いは「これでいいのだ」じゃないか、とひらめいた。いまタモリの赤塚不二夫への弔辞を確認して、やはりそう思った。

『…あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。…あなたはギャグによって物事を無化していったのです。…あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ちはなたれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事にひとことで言い表してます。すなわち、「これでいいのだ」と。』

般若心経の前半は空について説かれている。この世の物質も肉体も一切は「空」。空とは虚しいとか無いというのではなく、我々が目で見て認識したり感覚によって感知しているつもりになってる物質も現象も我々自身も、その実体は「そう見えている、そう感じられる」だけに過ぎない、ということだと思う。誰にとっても絶対的に同じ事象や同じ感覚は存在しないのだ。これは科学的にもいえることだ。肉体という粗末な袋に入った(と思い込んでいる)我々は知識や感覚器官をたよりに世界を認識し把握したつもりで、その実矮小な主観と感情でそう見えているだけの事物を絶対と思い込み、自分自身をがんじがらめにして生きている。
心経の後半では「心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖」心にこだわりがないために恐れを持たず、「能除一切苦」一切の苦しみから解き放たれる境地を説いている。そんな境地に一体どうすればなれるだろう?悟りを得るため仏教に帰依しろとか修行しろとは言っていないと思う。釈迦はルンビニ宮を出て老い、病、死などの苦しみを知り、人生の苦しみを何とか救いたいと出家なされた。悟りを開いたときも教えを説く道の険しさを思って悩んだあげく、衆生に説くことを決意なされた。頭でわかったつもりになるのではなく、我々が実践によって釈迦の教えを人生に生かしていくことを願われてのことだと思う。般若心経はわからなくても唱えていれば極楽にいける呪文のようなものではなく、釈迦の教えのエッセンスが詰まった実際的なアドバイスなのではないか。涅槃はあの世のことではなく、限界だらけに囚われたちっぽけな存在と思い込んでいる自分自身や周囲の事物が、実はもっと無限無辺の何かであることが感じられたときスッと立つ事ができる「重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、異様に明るく感じられる場」なのかもしれない。‥

***

目を逸らすのではなく全てをいったん受け入れる。あるがままに、前向きに、肯定して…病や死の場合は難しいけれど、少なくとも恐怖はある程度無くなるのではないか。そうしたら一日一日を愛しんで生きられるのではないかしら。でも、やっぱり綺麗事かとも思う。本当に受け入れれば恐怖がなくなるのか、自分はどうなのか。まだわからない。

(敬称略)
プロフィール

胡舟

Author:胡舟
北海道オホーツクに在住し北の海のクラフトを作っています。

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