盗作事件で思うこと
もう忘れられかけてるようだけど、一時話題騒然になった芸術選奨画家の盗作問題。私はとても興味深かったし、色々考えさせられた。今年一番印象に残ったトピックだった。
テレビなどのメディアが、問題の絵とイタリア人画家の”元絵”をこれでもかと並べて見せたお陰で、いかに元絵をほぼ変えずに描かれてるかばかりがクローズアップされて、そこばかりが騒がれた。しかしこの事件の根は深いし、「芸術ってなんなの?」という根源的な問題提起になっていると思うので、模写かそうでないのかと騒がれただけで収束してしまったのは残念な気がする。
(文学や音楽を含めた)創作芸術においては「オマージュ」「パロディ」という考え方があって、そのような作品も多数存在する。わかりやすく言えば「本歌取り」。本歌取りを辞書で引くと「すぐれた古歌や詩の語句、発想、趣向などを意識的に取り入れる表現技巧」とある。
例えば若き日の寺山修司の歌、
ふるさとの訛りなくせし友といてモカコーヒーはかくまで苦し
いわずと知れた石川啄木の「ふるさとの訛り懐かし~」が元歌とわかるけど、その意味するところはまるで反対。寺山修司の志向性が既によく現れている、才能光る歌だと思う。これを読んで石川啄木の盗作だと怒る人は居ないだろう。(短歌研究に発表された寺山の一連の”本歌取り”作品に対して当時吉本隆明がぶつけた批判はあくまでも、少年寺山がただ本歌取りに長けているだけの贋金ではないのか、本当に才ある若き歌人の登場なのかという議論であり、歌そのものの真贋を云々したものではなかったはず。ちなみに短歌研究の編集長中井英夫は最後まで寺山をかばい続けた。この部分は再度調べて後日書き改めるかも。)
本歌取りの定義はオマージュやパロディにも適用できそうだけれど、私なりに補足するとしたら「優れた作品もしくは人口に膾炙した作品やイメージを元とし、そのイメージ(や作品)を元にすることが、創作上の必然だったと認知しえる作品」、となるかもしれない。(パロディとオマージュではもちろん違うけれど、ここではあえて一緒にして考えるとして。)
まず元作品が改めて紹介する必要がないくらい周知であること(モナリザなど)。元作品があまり一般的でないとまずパロディは成立しないし、オマージュであるなら元作品への尊敬を同時に鑑賞者に対して表明すべきだろう。次にそれがどうしても創作上必要だったことが鑑賞者に納得しえるもの、は、元作品が持つ意味や社会が付与した意味を逆手に利用することによって作品のテーマ性が成立する場合、など。これはパロディの定義になりそうだけど、オマージュの場合ならやはり、元作品への感動と尊敬の思いが下敷きになっていることが表明されていないといけないと思うのだ。
そういう意味では今回の和田義彦は、創作態度としては明らかに盗作に当たると考える。よしんば隅々までご丁寧に模写した事実が、スーギの芸術への強い執着を表すとしてもだ。アルベルト・スーギ氏の芸術が日本で周知されていなければ同氏を紹介し、オマージュである点を明らかにしてから堂々と絵を発表すべきでしょう。会見での映像や話し方からは、内心の疚しさを取り繕おうとする態度が見え見えに感じられた。だいたい疚しい心で作られた芸術などありえない。
そこで、今回の問題で私が一番興味深かったのは次の点だ。
つまり優れた技術による模写は、模写された元の作品と同水準の芸術性を有して見えるらしいということ。美術界のお歴々が欺かれてしまうほどに絵そのものの「見た目の芸術性」は高かった。元絵があることを知らずに見たら、私も和田の作品は素敵だと思ったに違いない。深い内面性や叙情性をきっちり感じたに違いない。
ここから「作品そのもの」だけを評価するのか、それとも制作プロセスや作家の思想までも含めて作品を評価するのか、という問題が顕れると思う。評価という言葉を使ったけど、鑑賞と置き換えても同じことだろう。
当時和田を擁護した”著名人”らの言い分では「作品だけを見れば別の(芸術)作品といえる、オマージュかパロディと認められる」というものだ。(事前にスーギ氏の了解があった共同作品と主張している分は除外。)また問題発覚時の和田の説明次第ではパロディ作品なりオマージュ作品なりに転換できたはずなのにという。(横尾忠則など。)これらは作品と制作背景は切り離して考えるべきという主張ともいえるだろう。
しかし、制作にまつわる背景を切り離して作品だけを考えるというのなら、別にパロディに転換しなくても「和田に芸術選奨を与えるべきだ」と主張しても同じではないかしら?芸術選奨を選んだ人たちも、創作の思想にまでは踏み込んで調査していなかったのだから、どちらも結局同じことのように私には思える。
模写といえば、1963年に赤瀬川原平の千円札模写事件というのがある。芸術家赤瀬川原平が千円札を畳大にリアルに模写した作品を作り、それが通貨偽造違反とされて、最高裁まで争った結果有罪になった。これなども「なぜそんなものを作ろうとしたのか?」という深い理解をしようとせず、「制作の必然性」と作品とを切り離してしまうと、作品は単なる偽札になってしまうのだろう。
(続く)
テレビなどのメディアが、問題の絵とイタリア人画家の”元絵”をこれでもかと並べて見せたお陰で、いかに元絵をほぼ変えずに描かれてるかばかりがクローズアップされて、そこばかりが騒がれた。しかしこの事件の根は深いし、「芸術ってなんなの?」という根源的な問題提起になっていると思うので、模写かそうでないのかと騒がれただけで収束してしまったのは残念な気がする。
(文学や音楽を含めた)創作芸術においては「オマージュ」「パロディ」という考え方があって、そのような作品も多数存在する。わかりやすく言えば「本歌取り」。本歌取りを辞書で引くと「すぐれた古歌や詩の語句、発想、趣向などを意識的に取り入れる表現技巧」とある。
例えば若き日の寺山修司の歌、
ふるさとの訛りなくせし友といてモカコーヒーはかくまで苦し
いわずと知れた石川啄木の「ふるさとの訛り懐かし~」が元歌とわかるけど、その意味するところはまるで反対。寺山修司の志向性が既によく現れている、才能光る歌だと思う。これを読んで石川啄木の盗作だと怒る人は居ないだろう。(短歌研究に発表された寺山の一連の”本歌取り”作品に対して当時吉本隆明がぶつけた批判はあくまでも、少年寺山がただ本歌取りに長けているだけの贋金ではないのか、本当に才ある若き歌人の登場なのかという議論であり、歌そのものの真贋を云々したものではなかったはず。ちなみに短歌研究の編集長中井英夫は最後まで寺山をかばい続けた。この部分は再度調べて後日書き改めるかも。)
本歌取りの定義はオマージュやパロディにも適用できそうだけれど、私なりに補足するとしたら「優れた作品もしくは人口に膾炙した作品やイメージを元とし、そのイメージ(や作品)を元にすることが、創作上の必然だったと認知しえる作品」、となるかもしれない。(パロディとオマージュではもちろん違うけれど、ここではあえて一緒にして考えるとして。)
まず元作品が改めて紹介する必要がないくらい周知であること(モナリザなど)。元作品があまり一般的でないとまずパロディは成立しないし、オマージュであるなら元作品への尊敬を同時に鑑賞者に対して表明すべきだろう。次にそれがどうしても創作上必要だったことが鑑賞者に納得しえるもの、は、元作品が持つ意味や社会が付与した意味を逆手に利用することによって作品のテーマ性が成立する場合、など。これはパロディの定義になりそうだけど、オマージュの場合ならやはり、元作品への感動と尊敬の思いが下敷きになっていることが表明されていないといけないと思うのだ。
そういう意味では今回の和田義彦は、創作態度としては明らかに盗作に当たると考える。よしんば隅々までご丁寧に模写した事実が、スーギの芸術への強い執着を表すとしてもだ。アルベルト・スーギ氏の芸術が日本で周知されていなければ同氏を紹介し、オマージュである点を明らかにしてから堂々と絵を発表すべきでしょう。会見での映像や話し方からは、内心の疚しさを取り繕おうとする態度が見え見えに感じられた。だいたい疚しい心で作られた芸術などありえない。
そこで、今回の問題で私が一番興味深かったのは次の点だ。
つまり優れた技術による模写は、模写された元の作品と同水準の芸術性を有して見えるらしいということ。美術界のお歴々が欺かれてしまうほどに絵そのものの「見た目の芸術性」は高かった。元絵があることを知らずに見たら、私も和田の作品は素敵だと思ったに違いない。深い内面性や叙情性をきっちり感じたに違いない。
ここから「作品そのもの」だけを評価するのか、それとも制作プロセスや作家の思想までも含めて作品を評価するのか、という問題が顕れると思う。評価という言葉を使ったけど、鑑賞と置き換えても同じことだろう。
当時和田を擁護した”著名人”らの言い分では「作品だけを見れば別の(芸術)作品といえる、オマージュかパロディと認められる」というものだ。(事前にスーギ氏の了解があった共同作品と主張している分は除外。)また問題発覚時の和田の説明次第ではパロディ作品なりオマージュ作品なりに転換できたはずなのにという。(横尾忠則など。)これらは作品と制作背景は切り離して考えるべきという主張ともいえるだろう。
しかし、制作にまつわる背景を切り離して作品だけを考えるというのなら、別にパロディに転換しなくても「和田に芸術選奨を与えるべきだ」と主張しても同じではないかしら?芸術選奨を選んだ人たちも、創作の思想にまでは踏み込んで調査していなかったのだから、どちらも結局同じことのように私には思える。
模写といえば、1963年に赤瀬川原平の千円札模写事件というのがある。芸術家赤瀬川原平が千円札を畳大にリアルに模写した作品を作り、それが通貨偽造違反とされて、最高裁まで争った結果有罪になった。これなども「なぜそんなものを作ろうとしたのか?」という深い理解をしようとせず、「制作の必然性」と作品とを切り離してしまうと、作品は単なる偽札になってしまうのだろう。
(続く)