妙味絶佳 ぶっかけ飯宣言
最近嬉しくなってしまう本を見つけた。「ぶっかけ飯の快感-A級保存版のBCD級グルメ」 。著者は発酵学教授こと小泉武夫先生。爽快な文章の一端をご紹介すると、
「ご飯の上に竹串を外した一本を載せ、それを前歯で3分の1くらいの量をちぎって口に入れ、噛むと、まず油でカラッと揚がった香ばしいシソの葉の臭いが、鼻腔にフワッと押し寄せてきます。その直後、口の中には重厚な味噌の味ととうがらしのピリ辛が拡散し、それが揚げ油からきたコクみと出会ってマイルドになります。すかさずそこにご飯を追っかけて入れてやると、今度はとたんにご飯からの上品な甘みと混じり合い、口の中はまことにもって妙味絶佳の世界に染められてしまうのです」。
なんたる臨場感たっぷりの描写。湧き上がるごはんの湯気、料理の香り、カッカッとかき込む時に茶碗に当たる箸の音まで聴こえてきそう。食についてのエッセイを読むのは好きだけど、美味しくものを食べる喜び・幸福がこれほどまで真に迫って感じられた本は初めてだ。あ、ここで論じられている料理は「紫蘇巻き(味噌を紫蘇の葉に巻き込んで油で炒める)です。他の料理も全て、なんでもない、日本人ならどこでも誰でも味わうことが可能な、低価格で出来る、庶民的、しかし奥の深~い、B級グルメの数々だ。例えばサバ水煮缶を使った鍋、餃子丼、ベーコン茶漬け、納豆カレー、サメの煮付けなどなど全て著者が自分で考案し、工夫し作り、自分も楽しみ人にも振舞う料理。つまり小泉先生流料理のレシピ本なのだ。
第一章の一番最初の文章タイトルが「猫飯こそ食味の悟り」。ああ猫飯!この一文を見ただけで思いましたね、この方こそ私の同士だ!と。夜中に布団の中で読みながらクスクスわはははと笑っていたら家族に「何読んでるの」と訊かれ、料理の本と言ったら驚いていた。だってこんな傑作な本、嬉しくって笑わずにいられようか。ついでに夜中というのにお腹が空いて困ったけど。
元から私は小泉先生大好きだ。お話がとっても面白いしわかりやすい。深く考えれば豊かな含蓄がありまた現代社会への鋭い批判も読み取ることが出来るだろうけど、何より面白いからお話を聴くのが楽しいし、表情豊かな話し振りから伺えるお人柄も魅力的。生きる喜びに溢れた方だなぁと。そしてこの本を読んで、本当の傑物だなぁと感じ入ったのでありました。何しろご自身を「味覚人飛行物体」、自ら包丁を奮う厨房を「食魔亭」と名づけておられるのだ。レシピの数々も”食べるのが好きなオヤジの独りよがり素人料理”なんかでは決して無い。専門家としての豊かな経験(もちろん魚の捌きなんかはプロ級)と生来の食道楽が合体しての、アイデアに富みつつ合理的なメニューばかりである。度々他の人にも振舞っていつも大いに評判が良いそうだ。
私も以前汁かけご飯が好きだと書いた。でもそう書くのは(女性として)ちょっと恥ずかしい部分もあったりした。だいたい女同士の食べ物に関する会話で「味噌汁って冷たくなってからが美味しいよねー」「それを温かいご飯にかけて、上にたくあんとチーズと昆布の佃煮を乗っけてグルグルかき混ぜてかっこむと美味しいよねー」みたいには、ぜーっったいにならない。どころか「そんなこと外で言うんじゃありません!!」と母親から口止めを言い渡されたり。猫飯ライクにいろんな食べ物を混ぜて乗っけて食べると旨い、と堂々書いているのは100%男性だ。”女の本物志向”ってのは、本物イコール高級品だと勘違いしてるフシがなきにしもあらず。自分もそんなわけわかんない思想に侵されてるフシがなきにしもあらず。
でも小泉武夫先生のご本を読んで、「そうよそーなのよ!誰がなんと言おうとぶっかけ飯は旨いんだぜ!!」と強く思ったので、改めてここでぶっかけ飯宣言したろーじゃないという所存である。簡単だけど安直じゃない、安価だけどこだわりあり。高いものにしか美食が存在しないと思うことが間違いなのだ。食味の道は深く、しかれども決して手の届かない世界のものではない。日々の生活の中にこそ賢い工夫が、奥ゆかしい知恵が生かされるべきものだ。とある人気料理作家のレシピを見たら、パンケーキひとつにしても小麦粉は「出来るだけ無漂白」で、シロップは「出来るだけ本物のメープルシロップ」で、バターは「出来るだけ純正バター」で、だって。そりゃー美味しいに決まってるじゃん!!(怒)それより教え子が美味しい地酒を贈って、どんなに先生喜んだことだろうと伺ってみたら怒っていて、曰く「あんな美味しい酒をもらったら、毎日晩酌している安酒が飲めたものではなくなってしまうではないか」と言った内田百の方が、よほど共感できるのだ。そう、いくら美味しい上等な料理でも、ハレのご馳走ばかりにしかならないのはアウト。何でもない食べ物にこそ奥深い味わいが潜んでいる、これを見つけ出すのが食の醍醐味であり楽しみなのです。
「ご飯の上に竹串を外した一本を載せ、それを前歯で3分の1くらいの量をちぎって口に入れ、噛むと、まず油でカラッと揚がった香ばしいシソの葉の臭いが、鼻腔にフワッと押し寄せてきます。その直後、口の中には重厚な味噌の味ととうがらしのピリ辛が拡散し、それが揚げ油からきたコクみと出会ってマイルドになります。すかさずそこにご飯を追っかけて入れてやると、今度はとたんにご飯からの上品な甘みと混じり合い、口の中はまことにもって妙味絶佳の世界に染められてしまうのです」。
なんたる臨場感たっぷりの描写。湧き上がるごはんの湯気、料理の香り、カッカッとかき込む時に茶碗に当たる箸の音まで聴こえてきそう。食についてのエッセイを読むのは好きだけど、美味しくものを食べる喜び・幸福がこれほどまで真に迫って感じられた本は初めてだ。あ、ここで論じられている料理は「紫蘇巻き(味噌を紫蘇の葉に巻き込んで油で炒める)です。他の料理も全て、なんでもない、日本人ならどこでも誰でも味わうことが可能な、低価格で出来る、庶民的、しかし奥の深~い、B級グルメの数々だ。例えばサバ水煮缶を使った鍋、餃子丼、ベーコン茶漬け、納豆カレー、サメの煮付けなどなど全て著者が自分で考案し、工夫し作り、自分も楽しみ人にも振舞う料理。つまり小泉先生流料理のレシピ本なのだ。
第一章の一番最初の文章タイトルが「猫飯こそ食味の悟り」。ああ猫飯!この一文を見ただけで思いましたね、この方こそ私の同士だ!と。夜中に布団の中で読みながらクスクスわはははと笑っていたら家族に「何読んでるの」と訊かれ、料理の本と言ったら驚いていた。だってこんな傑作な本、嬉しくって笑わずにいられようか。ついでに夜中というのにお腹が空いて困ったけど。
元から私は小泉先生大好きだ。お話がとっても面白いしわかりやすい。深く考えれば豊かな含蓄がありまた現代社会への鋭い批判も読み取ることが出来るだろうけど、何より面白いからお話を聴くのが楽しいし、表情豊かな話し振りから伺えるお人柄も魅力的。生きる喜びに溢れた方だなぁと。そしてこの本を読んで、本当の傑物だなぁと感じ入ったのでありました。何しろご自身を「味覚人飛行物体」、自ら包丁を奮う厨房を「食魔亭」と名づけておられるのだ。レシピの数々も”食べるのが好きなオヤジの独りよがり素人料理”なんかでは決して無い。専門家としての豊かな経験(もちろん魚の捌きなんかはプロ級)と生来の食道楽が合体しての、アイデアに富みつつ合理的なメニューばかりである。度々他の人にも振舞っていつも大いに評判が良いそうだ。
私も以前汁かけご飯が好きだと書いた。でもそう書くのは(女性として)ちょっと恥ずかしい部分もあったりした。だいたい女同士の食べ物に関する会話で「味噌汁って冷たくなってからが美味しいよねー」「それを温かいご飯にかけて、上にたくあんとチーズと昆布の佃煮を乗っけてグルグルかき混ぜてかっこむと美味しいよねー」みたいには、ぜーっったいにならない。どころか「そんなこと外で言うんじゃありません!!」と母親から口止めを言い渡されたり。猫飯ライクにいろんな食べ物を混ぜて乗っけて食べると旨い、と堂々書いているのは100%男性だ。”女の本物志向”ってのは、本物イコール高級品だと勘違いしてるフシがなきにしもあらず。自分もそんなわけわかんない思想に侵されてるフシがなきにしもあらず。
でも小泉武夫先生のご本を読んで、「そうよそーなのよ!誰がなんと言おうとぶっかけ飯は旨いんだぜ!!」と強く思ったので、改めてここでぶっかけ飯宣言したろーじゃないという所存である。簡単だけど安直じゃない、安価だけどこだわりあり。高いものにしか美食が存在しないと思うことが間違いなのだ。食味の道は深く、しかれども決して手の届かない世界のものではない。日々の生活の中にこそ賢い工夫が、奥ゆかしい知恵が生かされるべきものだ。とある人気料理作家のレシピを見たら、パンケーキひとつにしても小麦粉は「出来るだけ無漂白」で、シロップは「出来るだけ本物のメープルシロップ」で、バターは「出来るだけ純正バター」で、だって。そりゃー美味しいに決まってるじゃん!!(怒)それより教え子が美味しい地酒を贈って、どんなに先生喜んだことだろうと伺ってみたら怒っていて、曰く「あんな美味しい酒をもらったら、毎日晩酌している安酒が飲めたものではなくなってしまうではないか」と言った内田百の方が、よほど共感できるのだ。そう、いくら美味しい上等な料理でも、ハレのご馳走ばかりにしかならないのはアウト。何でもない食べ物にこそ奥深い味わいが潜んでいる、これを見つけ出すのが食の醍醐味であり楽しみなのです。