つれづれに思うこと

どう死を迎えるかは大切なことだと思う。当人にも周囲にとっても。けれど呼吸が続く間はやはり生きることを考えたい。カウントダウンにおびえながら過ごすよりも明日咲く花を楽しみにしたい。それは思考停止、たんなる願望に過ぎないのだろうか?

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いつからか仏教ではなく釈迦の教えの本質を知りたいと思うようになった。連休中も、早い田舎の夜のもてあました時間に、般若心経の本を読んでいた。そしてふっと一番最後の真言「羯諦羯諦…」の謂いは「これでいいのだ」じゃないか、とひらめいた。いまタモリの赤塚不二夫への弔辞を確認して、やはりそう思った。

『…あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。…あなたはギャグによって物事を無化していったのです。…あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ちはなたれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事にひとことで言い表してます。すなわち、「これでいいのだ」と。』

般若心経の前半は空について説かれている。この世の物質も肉体も一切は「空」。空とは虚しいとか無いというのではなく、我々が目で見て認識したり感覚によって感知しているつもりになってる物質も現象も我々自身も、その実体は「そう見えている、そう感じられる」だけに過ぎない、ということだと思う。誰にとっても絶対的に同じ事象や同じ感覚は存在しないのだ。これは科学的にもいえることだ。肉体という粗末な袋に入った(と思い込んでいる)我々は知識や感覚器官をたよりに世界を認識し把握したつもりで、その実矮小な主観と感情でそう見えているだけの事物を絶対と思い込み、自分自身をがんじがらめにして生きている。
心経の後半では「心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖」心にこだわりがないために恐れを持たず、「能除一切苦」一切の苦しみから解き放たれる境地を説いている。そんな境地に一体どうすればなれるだろう?悟りを得るため仏教に帰依しろとか修行しろとは言っていないと思う。釈迦はルンビニ宮を出て老い、病、死などの苦しみを知り、人生の苦しみを何とか救いたいと出家なされた。悟りを開いたときも教えを説く道の険しさを思って悩んだあげく、衆生に説くことを決意なされた。頭でわかったつもりになるのではなく、我々が実践によって釈迦の教えを人生に生かしていくことを願われてのことだと思う。般若心経はわからなくても唱えていれば極楽にいける呪文のようなものではなく、釈迦の教えのエッセンスが詰まった実際的なアドバイスなのではないか。涅槃はあの世のことではなく、限界だらけに囚われたちっぽけな存在と思い込んでいる自分自身や周囲の事物が、実はもっと無限無辺の何かであることが感じられたときスッと立つ事ができる「重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、異様に明るく感じられる場」なのかもしれない。‥

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目を逸らすのではなく全てをいったん受け入れる。あるがままに、前向きに、肯定して…病や死の場合は難しいけれど、少なくとも恐怖はある程度無くなるのではないか。そうしたら一日一日を愛しんで生きられるのではないかしら。でも、やっぱり綺麗事かとも思う。本当に受け入れれば恐怖がなくなるのか、自分はどうなのか。まだわからない。

(敬称略)
プロフィール

胡舟

Author:胡舟
北海道オホーツクに在住し北の海のクラフトを作っています。

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